富栄山、大空山                 

平成21510() 天気 晴れ ランクB

参加者:10

コースタイム:松江(8:00) のとろキャンプ場(9:40)分岐(11:00)富栄山(11:25昼食12:10

大空山(12:45/12:55)分岐(13:10/13:15)駐車場(14:20)のとろ温泉(14:35/15:20

松江(16:40

10人と少ない山行でしたが、駐車場へ着くと数台の車が止まっている。結構、人気がある

のかな・・・それとも新しい山なので多いのかも・・・。最初から急な階段、そして先を見

たくない急登の連続。結構しんどい山だ。登る人が多いのか地元の人が年に何回か整備をさ

れているのか、気持ちの良い登山道となっていた。

頂上は、350度の展望が望める。おまけに展望台まで設置してある。頂上は木陰が少ないの

で展望台の下で昼食。下山は、すいすいとこれを登ったのだと思いながら慎重に下山して、

温泉に直行。天気の恵まれ気持ちの良い1日でした。(報告:岩崎)

記 吉川

山野に新緑が目立ちはじめ、風も爽やかになって、いよいよ夏の気配が感じられてくる新暦

5月5日は立夏であった。本日は5月10日。車は蒜山ICを経由して、のとろ原駐車場を目

指す。その間の道路は狭く何十回も曲がりくねった難所であり、常に対向車が下ってくるのが

懸念されたが、幸い杞憂に終わった。


今、我われが登る二つの山、富栄山(1205m))と大空山(1103m)は私には初めての山で、そ

の名称がいかにもモダンな響きとイメージを伝える山である。その由来をご紹介したい。岡

山県鏡野町の山塊の最も展望のよい地点に三角点を置いて「大空山」と称したが、山塊中の最

高峰はそれより1.5キロ北にある。地元の人が遊歩道をつけ、国土地理院も1985年に測

定し、三角点を置いた。しかし、この最高峰に名前がなく人々の志気が上がらず、1989年

に一般募集して命名されたのが「富栄山(ふえいざん)」、つまり富が栄える山とした。それ

は、今から20年前、ベルリンの壁が崩壊した頃、地元の人々が世相を反映して、経済の発展

と生活の豊かさを念じながら名づけたのであろう。

「岡山市政80周年記念造林地」の石碑の場所が登山口である。時刻は9時40分。いきな

り目の前に登山道があり木造の階段が林の中を真っ直ぐ上にのびる急登である。50メートル

ばかり登りきると、あとは平坦道と階段道を繰り返すうちに尾根を越え、清流の井手ノ谷川筋

に下り、丸木橋を渡って杉林を経て尾根道に至る。尾根道は緩急を繰り返すうちに傾斜が険し

くなる。やがて樹林はブナ、ミズナラへとその姿を変える。鶯(うぐいす)をはじめ、ほかの

小鳥たちの鳴き声があちこちから聴かれる。かれらは恋の相手をもとめているのか、縄張りを

主張しているのか、新緑の初夏の精気を十分に楽しんでいるようだ。

樹木の葉っぱはまだ短いが、三角な葉は空に向かい、円形の葉は横に向かって、それぞれ精一杯

伸びようとしている。今のところ樹木の間から遠くの山が見える。右手の山は霰ヶ山(あられが

せん)であろう。左には視線より少し高い位置に緑の見事ななだらかな岡が上方に連なっている

。登山道はよく整備されていて歩きやすい。4ヵ所ほど朽ちかけた大木が道をふさぎ、その下を

くぐり抜けて進む。急登のジグジグを登りつめ、稜線に向かって進むとT字形をした分岐点の富

栄山縦走路に着く。ここまでの道のりは3.2キロである。小休憩して、左、つまり北の方向に

向かって稜線を行く。道は密生するネマガリダケをきれいに切り開いたものである。途中で若い

芽のネマガリダケを採りながら1キロ足らずで、富栄山の頂上に
11時25分に到着する。出発

してから1時間45分を要した。頂上は見晴らしのよい広大な眺望である。


食事の場所を求めたが、日差しが異常に強い。この頂上には木陰がない。中央にある木造の展望

台の下で涼をとりながら弁当を開く。ちょっと離れた一本の樹の下の緑陰で食事をする人もいる

。取り留めのない話題の中で、昨9日津和野町では日本での最高気温(32.8度)を記録

したとのこと、これにはいささか驚いた。本日も暑い。食事が終わると、大きな地図を2枚つな

ぎ合わせて、遠方の山々を確認する。やや霞んだ山並みを眺め渡し、大山から視線を右にずらし

て烏ヶ山、蒜山、若杉山、泉ヶ山、那岐山とこの地方の名山を確認する。


50分ほど休憩した後、もと来た道を引き返し、分岐点をそのまま真っ直ぐに進み、登り下りを

いくつか繰り返し30分ほどで大空山に着く。ここの眺めも広い。この山名は昔から呼称されて

いたであろうが、いかにもゆったりした大らかなよい名前を付けてもらっている。ここから帰路

につくが、相当に暑い。7,8月のこの山行はかなりしんどいだろうと予想しながら下山し、の

とろ原駐車場へ14時20分に到着する。往復時間5時間弱を要する山行であった。のとろ温泉

へは車で数分のところである。山間の温泉ですっかりくつろいでの帰り道、道路わきの気温標示

板は30度を示しているので大いに驚く。この高温は並大抵のことではあるまい。異常気象は常

に気懸かりである。


何はともあれ、今日の富栄山、大空山登山は時宜を得たよい企画であった。母の日というのも

縁起のいい記念すべき日であった。

517日計画の白馬〜金ヶ谷山は、

雨天中止としました。 

幡屋三山、金山要害山             

平成21523() 天気 晴れ  ランクC

参加者:13

コースタイム:武道館800 − 登山口850 − 丸倉山920 − 大平山 − 八重山1045

丸倉山P(昼食)11501230 − 林道 − 登山口1310 − 要害山1335

登山口1400 − 大森の湯1420 − 武道館1530

天候に恵まれ、丸倉山、大平山、八重山を登り、丸倉山林道の途中にある東屋の上で食事をしました。食後車

で要害山登山口に移動し、要害山に登り、大森温泉に入り、松江に帰りました。(報告:今岡)

記 大坂(慎)

今回、初めて松江ハイキングクラブの山登りに参加させていただきました。3〜4年前から山

登りに目覚め、これまで大山や吾妻山、大江高山など、近くにある幾つかの山をその時々のメン

バーとともに登ってきました。

山登りに参加すると毎回思うことですが、「何人ぐらい参加するんだろう」「どんな人達と一

緒に登るんだろう」と、「どんな山に登るんだろう」というこれから登る山のこと以前に、一緒

に山登りするメンバーにワクワクしている自分がいます。今回初めての参加でしたが、朝、ドキ

ドキしながら集合場所に到着したら、みなさん笑顔で温かい雰囲気の中に迎えてくださり、これ

から始まる山登りが「楽しそう!」と思えた瞬間でした。

この日は天気もよく、山に登る一歩一歩がとても気持ちよく感じられました。山のこと、植物

のことなどあまり分からないわたしにとって、メンバーの方が「あの向こうに見える山が朝日山

だね」「あっ、ここにササユリの花がある」「こんなところにコアジサイが咲いている」と言わ

れるたびに、ただただ圧倒され、感心するばかり!しかし、そんな話を聞くたびに「山っておも

しろいなあ」という思いがさらに強くなってきました。

今岡さんには随所で植物のこと、山登りの技術などを教えていただき、とてもためになるとと

もに、次の山登りへの楽しみがふくらみました。またメンバーのみなさんがとても気さくに声を

かけてくださり、わたしも楽しくお話をさせていただきました。

要害山の山頂から眺めた、出雲空港から飛び立つ飛行機を見て、これからわたしもあの飛行機の

ように楽しい山登りの世界に飛び出していくんだろうなあと、胸をワクワクさせました。

本当に楽しい1日をありがとうございました。次の山登りに参加できるのを楽しみにしています。

大 万 木 山                   

平成2167() 天気 小雨後曇り  ランクB

参加者:8

コースタイム:武道館7:55 − 門坂駐車場950 − 地蔵堂10:30 − 大万木山頂11:20(昼食)12:10

横手道分岐13:10 − 門坂駐車場13:40 − 武道館1520

駐車場に着くと小雨が降っており雨具を着ての出発となった。途中雨も上がり霧の中のブナ林が美しかった。頂上に着

いた後、Sさんの案内でタコブナを見に行く。皆さん初めての様でした。下りは森の中に日差しが入り雨上がりの緑が一

段ときれいでした。(報告:渡部)

新緑のブナ林を歩く 大万木山

記 大津

昨夜の天気予報では晴れ晴れマークで、絶好の山日和となるはずだったのに、生憎の小雨模様。

でも、霧雨くらいなら大万木のブナ林はちょうど良い風情になると負け惜しみを言いながら男女8

名のパーティは出発した。

晴れてくるのではとの期待もあったが大万木の駐車場に降りると、雨合羽を着たほうが良いくらい

の小雨。昨年新入クラブ会員の講習会で、上等の雨合羽は必携と言われ大枚を叩いて買った合羽を

始めて着ることになる。

気温は10度台と少し低めとはいえ、合羽を着て山に登るとさすがに暑くて20分もすると服装

調整でみんな脱ぐことになったが、新緑に包まれた樹木のおかげもあって雨も気にならず、風に揺

られたのだろうか、たまに落ちる雫の音が楽しい。ブナ林の新緑を堪能しながらひたすら頂上をめ

ざす。

7〜8合目だったろうか空が少し明るくなった途端、急に小鳥のさえずりが大きくなってきた。

ようやく晴れてきたのだろう。天気予報も少し時間がずれることはよくあるので、今日は遅れたの

だろうとは吉川会長の弁。

私の大万木は今回が2度目と少ないのは山頂からの眺望がきかないためといってよい。山登りの

楽しさは、頂上に辿り着いた達成感と素晴らしい眺望となぜか美味い弁当につきる。

頂上のブナの大木(タコブナ)でHP用写真を撮って、展望台で昼食。ガスがかかって下界は見え

ないが適当に想像しながら昼食に舌鼓を打つ。

山歩きを始めて10年になろうとしているが、何故か一定以上歩くと膝が痛くなり、MHCではも

っぱらランクCだけと思っていたが、この4月に結婚以来初めて家内と山に登ったところ、想定外

の健脚でCランクでは物足りなさそうなので今回はランクBに参加することにした。(家内は孫が

発熱でドタキャン)しかし、体力には自信があっても膝痛は何とかしないと経験者しかその苦痛

は分からない。アイシングをしたほうが良いとの話を聞き、昼食時間に氷水で冷やしてみた。何

とか膝は持ちこたえたものの痛みの来る瀬戸際で、アイシングの効果も気休め程度にしかならな

かったようだ。

下山は渓谷コースで登りの滝見コースよりなだらかな道のように感じたし、その分道ばたに咲く

花に目をやるゆとりも多くなる。花の名前はいくら聞いてもすぐ忘れてしまう年?になってしまっ

たが、何故かこの頃の花は白色ばかりといってよいほど白い可憐な花が多い。横手道になって膝の

心配もなくなったためか木漏れ日に映し出されるコアジサイの白い花が私には一番印象的だった。

駐車場ではすっかり晴れており、数時間のずれでしたねと少し残念がったが、終わりよければす

べて良しとしよう。

これからはAランクに挑戦しますと高らかに宣言されたFさん。元気でたくましい女性たちに励

まされながらの楽しい大万木山でした。

【個人山行記】

      一兵山家山 25,000「石見坂本」

平成21613()

記 長野 至

5月連休に西中国山地の聖山と臥龍山に登った際、八幡高原のカキツバタがまだ咲いていなかったので1ヵ月

後にまた行き、その山行に未登だった一兵山家山を組み込んだ。

西中国山地国定公園の東の端に位置するのが浜田市旭町と広島県北広島町芸北との県境をなす阿佐山塊で

ある。旭町市木から旧芸北町才乙へ越す「来尾峠」から東に天狗石山〜三ツ石山〜阿佐山が伸びている。07年

5月に南麓の深山から天狗石に登り、阿佐山まで完全縦走したが、登山者が多い割にこれをやる人は少なく殆どは

峠と天狗石の往復である。

峠から反対方向に伸びる冠山山系は、西端が中野冠山、東端が一平山家山である。阿佐山塊縦走の前日、冠

山に登って素晴らしい展望を楽しんでから、一兵山家山との中間まで進んだが、林道に下りてしまったので一兵山

家山には登っていない。あの日は深山の少し下の大暮で元小学校の庭にテントを張ったことを覚えている。

峠から北へ緩やかな登りを辿る。刈ったばかりの潅木が道を覆っていて「刈りっぱなしなのか」と思ったが、これ

は誤解だったのがあとでわかった。

登りというほどでもない道が平坦になり、松の木が4、5本立つ地の先から緩々と下った先に草地があり、西から

林道が上がっている。後ろを見ると雑草で埋まっているが稜線が一番狭まっていて、ここは峠ではないかと思った。

と、そこへ上から草刈機を担いだ中年の人が下りてきた。聞いてみるとここは都川峠(つかわダオ)で、才乙と都

川の人たちの往来は勿論、石州と芸州の主要街道のひとつだったこと、才乙側の斜面は40年前頃までは一面の

草原で放牧地であり、各集落から多くの人が放牧に参加した。一兵山家山の「山家」は「参加」がもとであり、昔は

この山を「一本木」と呼んでいたそうだ。町が水源涵養林にするために松を植えたが、種から育てるのではなく苗を

植えたのであまり育たず雑木が繁茂して眺めがない山になってしまったことなどたくさん話してもらった。

おじさんと別れてひと稼ぎで頂上に着いた。狭い円形の草地があるきり。しかし草地を取り巻いている潅木の一

部が切られていてその先に951.7mの二等三角点があった。さらに島根側の笹も。さっきのおじさんが「ふだん刈

らないが今日は向う側も少し刈っといた」おかげである。

下山にかかって足元をよく見ると才乙側は1メートルほどの崖になっている。牛馬が越さないように土塁になって

いるのだ。話を聞かなかったら気づかなかったろう。

思いがけない収穫にいい気分で来尾峠を下り、一路八幡高原の二川キャンプ場へ。無人。空模様が怪しいので

テントを炊事場に移し、もぐりこんでチビチビやっていたら少し飲み過ぎていつの間にか眠ってしまった。翌朝、何時

に寝たのかがどうしても思い出せなかった。しかしそんなことはどうでもいい。バンザイと叫びたくなる青空がひろが

っている朝だったから。

グループ山行ではテーマを持っての山行でもないかぎり山の歴史や山の人について知る機会はない。こちらが一

人かふたりで、かつこうした事を考えながら歩いているとごく自然に出会った人が「子どもの頃はねえー」と話し出し

てくれるのである。あのおじさんのおかげでこの山に対する私の思いは深くなるだろう。






熊野古道トレッキング・南紀観光
(県連登山報告)









(個人山行記)

(文責)乾 隆明

「出雲の山々」増補改訂版のプレビュー原稿シリーズbRをお届けします。

島根半島の藪山を復活したいと活動する今岡&岩崎両先達に連れられて、GW期間中に踏破調査しま

した。「@真山・白鹿山」「A嵩山・和久羅山」とつづいた松江市北郊の里山調査は「B松江北山

」をもって一段落です。多くの会員に見て頂き、間違いを正してから本の原稿にする目的です。是非

ともご指摘をお寄せ下さい。

松 江 北 山

松江市街地の北側に500m前後の山々が連なる。中世の山城であった大平山、大滝と御手洗滝

のソラにある滝空山、松江城下と加賀湊を結ぶ峠の澄水山、球形のレーダーの見える三坂山、北へ

尾根道をたどる野波の高渋山、華蔵寺のある本庄の枕木山、山中鹿介が戦の旗をあげた忠山。これ

らの山々を「松江北山」と総称する。いずれも山頂付近には電波塔が林立し、管理道路が作られた

ので、昔のような全山縦走の楽しみは減少したが、自動車を利用してコース取りをうまくすれば色

々な山歩きが満喫できる。澄水山と三坂山の間は舗装道だけなので、そこから西側と東側に山塊を

分けて紹介する。

1.松江北山の西側山塊

 大平山502m 滝空山475m

 澄水山507m

くにびき通りを北に向かうと正面に三角に見えるのが大平山。そこから右手へ延びる澄水山までの稜線は昔から

の道が残るので、北山縦走が楽しめる。南側へ下りるなら東持田町上坂本バス停付近の空地に帰路用の車を

置き、北側へ下りる場合は加賀別所林道の突き当りに車を止める。

★ 大平山へ

県道加賀線・新道トンネル手前に車が数台おける場所があり、左のコンクリート擁壁を登ると山道が始まる。暗

い樹下の道から稜線にでて90度右に曲がると登山道、曲がらず数歩行くと舗装した林道に出る。ここは大芦別

所から上講武を結ぶ「新道越え」の峠で、終戦頃までは魚商人が松江へ急ぎ、少年たちが海水浴に通った道だ。

大平山は中国自然歩道として整備された丸太の階段が続く城塞への急坂なのでゆっくり歩くと

良い。ベンチのある「小城山」の小ピークから気持ちの良い「馬乗り馬場」尾根をたどると大平

山へ着く。講武村誌によれば
戦国末期には真山の支城であったので地元では「大平城山」と呼ぶ

熱心に整備される人のお陰で山頂に広場ができ、大芦の赤瓦集落・潜戸や多古鼻から隠岐群島

・大山・中海・松江市街・宍道湖・大社湾まで360度が見渡せる、良い眺めの山に変身した。

★ 縦走路

大平山頂から緩やかな尾根道をたどると持田町納蔵からの林道の峠に出る。この道は高架橋を

通って大平山の北側を縫い、前述の新道峠から御的山の肩を超えて御津へ結ぶ。橋からのぞむ深

い谷は紅葉の頃は素晴らしく「ヤッホー」と叫ぶとコダマが返る。峠から東へ滝空山の北側を廻

り込んで澄水山まで繋ぐレーダー管理の林道延長工事が始まった。峠から滝空山へは農林高校演

習林のなかを登ると分岐になり、すぐに頂上だが展望はない。大平山⇔澄水山は自然歩道管理の

ため草刈が年に2回ほど行われており、広く平坦で快適な縦走路。

★ 澄水山から坂本へ

澄水山頂は航空レーダーなので立ち入り禁止だが、ここは加賀と松江を結ぶ「殿さん街道」と通

称される歴史の峠だ。風向きの関係で松江に入れない時は持ち船を加賀に着け、荷物を担いでこ

の峠を通ったと白潟本町の商家で聞いた。幕末にこの峠に住んだ勘助夫婦の碑には「身分違いの

恋を貫いた恋愛の祖」と刻まれ『島根町誌・資料編』に10頁分も紹介される。碑から南側

へ下りると出雲三十三か所霊場だった澄水寺跡。この寺は左手の福原道をおりて同地区へ移転し、

札所の観音堂になっている。落葉が敷き積もり一丁地蔵が見守る道は持田公民館の登山行事のため

に整備され、松江付近では最も気持ちの良い登山道の一つだ。坂道を降りた場所が始に車を停めた

上坂本である。

★ 御手洗滝へ

峠を北へ向かえば加賀湊。林道のガードレールを切って旧道への階段がつくられた。長らく人

々が通った道は踏み跡がえぐられて溝のようになり、ほぼ直線の広い道には一丁地蔵が残り、城

下と藩港を結ぶ主要街道であったことを物語る。落葉でふかふかの道は膝に優しく、おりると車

を置いた場所。まっすぐ下ると加賀港、左折して地道を歩き、沢を二つ越え、三番目の細い沢道

をおりると、落差30mの御手洗の滝にでる。オーバーハングの巨岩を流れ落ちる迫力は中国山

地の滝にも劣らず、雨上がりは水量が多くて寄りつけない。滝壺付近には不動明王の石像、対岸

には観音堂があり北前船が盛んに加賀へ寄港した明治初年の年号が読める。

観音堂から尾根伝いにテープを探しながら歩くと東持田への分岐へ出る。下草のない時期に縦

走路から御手洗の滝へ下りるのにも便利なルート。

★★ 大滝

 澄水山⇔滝空山の尾根道にある「東持田2q」の標識に従って持田へ降りられる。分かりにく

い道だがテープに注意すると高圧鉄塔の巡視路に出会い、納蔵から大平山の峠へ向かう林道に出

る。その途中から大滝へのルートがある。藪漕ぎに慣れた人は
出来るだけ歩いて 踏み跡をつ

けてほしい。ただし「大きい滝」と思うと肩透かしをくう。

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新道トンネル登山口→20分→新道峠→

50分→小城山→20分→大平山頂

大平山→30分→林道峠→20分→滝空分岐→30分→澄水山峠広場

澄水峠→15分→福原坂本分岐→30分→

上坂本バス停

澄水峠→40分→加賀別所林道終点→15分→御手洗滝

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(個人山行記)(先月号 続き)

(文責)乾 隆明

2.松江北山の東北側山塊

枕木山453m 三坂山535m

高渋山452m 忠山290m

 観光道路が出来てからの枕木山は一般に車で上がるが、近隣の村々から華蔵寺へ参る昔の

「枕木道」を復活して麓から歩いて上がれるルートをつくり、様々に組み合わせて登山も楽

しめる山になった。本庄扇状地の頂点にある川部を起点に島根半島北東部をつなぐ「文道寺

越」や、藩からの代参人が駕籠で華蔵寺へ参詣するための「殿さん道」などが復活した。

★ 「殿さん道」ルート

松江から福原を通ってきた「殿さん道」が川部へ下りる階段付近に3台ほど停められ、犬

飼橋上流の木橋を渡ると道はそのまま山に向かう。電力会社の標識が入口で、二本の高圧鉄

塔の下をくぐると平坦な「籠立場」、急坂の「座頭落し」などを一丁地蔵の道案内で過ぎる

と市道枕木町線に出会う。大木になった桜と楓の並木が見事で、眺望に優れた快適な遊歩道

だ。TV塔直下の観光道路に出会い、上へ回り込むと塔の立つ広場で中海展望の名所である。

 参道を歩いて山門や不動明王の巨像を見ながら華蔵寺に到着する。お寺の水洗トイレを使

用したらお賽銭をあげて江戸時代初期に建てられた堂宇や重文の仏像などを守る住職と檀家

を応援したい。参道や境内に数多のシャクナゲが寄進されて花の名所になりつつある。境内

では飲食禁止なので昼食を第二展望台で取れば中海方面の大眺望が楽しめる。登り1時間半

、下り1時間15分。

★ 千酌ルート

 千酌浦からの「枕木道」を利用して中国自然歩道が整備され、第二展望台からの道標に従うと千酌林道

終点の駐車スペースへ出られる。早春から初夏までは花々の多い道なので、登りのルートとして使うもの

良い。登り1時間、下り45分程度。

★ 文道寺ルート

 文道寺越は奈良時代に島根郡家から隠岐への便船があった千酌駅(ちくみのうまや)へ向

かう“国道”だった可能性もあり、江戸時代の絵図にも浦々と松江を結ぶ主要な街道として

載っている。自動車交通以前は野井や笠浦でブリが揚がると坂道を担いで松江まで出荷し、

天神祭や映画見物に峠道を歩くのが青年達の楽しみだった。この道でつながれた本庄・野波

・千酌の小学校の合同運動会には児童が歩いた道でもある。入山者はナタや剪定ハサミを持

参してツタ・イバラ・小枝・下草を切って子供達のために歴史の道を維持してほしい。

 川部の谷を詰めると林道終点が駐車場で右手につづら折れの文道寺越。いくつも作業道が

あって迷いやすいがテープを確認すれば40分ほどで峠に出る。尾根に立つ「三坂山(支)

30」の電柱が川部分れの目標。縦走路を枕木山方面に少し下ると「三坂山(支)26」の

電柱で車道に出会い、舗装道路を三坂山へ向かった右手に目印テープがある。路肩の崖をず

り下がると昔の街道が藪の中に姿をあらわす。牛馬が歩ける堂々たる道幅だ。がけ崩れの跡

を登れば、すぐに野波と千酌の分かれ道。右手へ尾根筋を下ると峠から1時間ほどで千酌林

道終点へ到着する。ここは前述の千酌ルートとの合流点でもある。前もって停めた車で帰っ

ても良いし、自然歩道を枕木山へ登り返すとさらに面白い。

★ 枕木山周遊ルート

 川部へ車を置いて「殿さん道」を上がり、お寺の裏山を越えて駐車場に出て、水洗トイレ

の場所から舗装道路を少し歩き、「三坂山(支)26」電柱から文道寺越を下り、川部の谷

を歩き、砂防ダムからすぐに「殿さん道」に戻るコースがお勧めだ。半日かけての山歩きで

昔の道を堪能できる。

★ 忠山ルート

 枕木山第二展望台から千酌ルートを少し降りて右手に入ると山中鹿介の拠った忠山へ行けるが、早春以

外は藪漕ぎ支度。ほぼ尾根筋の道だから中海方面の眺めは抜群。50分ほどで忠山の肩を越える林道に

出会ったら崖伝いに降りる。長海から千酌へ向かう「馬見谷越」も「文道越」と並んで古代“国道”の有力候

補。舗装道路を歩いて忠山頂上の電波塔を目指すと左上の森に鹿介の記念碑があり、鉄塔下の広場から

は北浦の浜が真下に見える。峠から20分程度。

★★ 枕木山→三坂山→高渋山→詰坂越

 枕木山頂東側の広い駐車場に止めて舗装道路を三坂山へ。七割方は昔の縦走路が残るので

尾根の地道を歩き、三坂山レーダーの下から北へ向かうと高渋山へのルートだ。加賀別所か

らの「枕木道」と重なる2qあまりは広くてなだらかな道。ピークを一つ越えてからの高渋

の前山へはきつい登だが、上がればゆるやかで山頂は近く、木々の間から加賀湾が見下ろせ

る。

詰坂までの長い尾根は椿の群生地なので花の時期に行くと藪も少なく歩きやすい。右手に

湾が青く見える頃に野波と加賀を結ぶ詰坂峠にでる。峠の地蔵さんの尾根には巨大な土橋が

つくられ、佐波側には幅1mほどの石畳が落葉の下から出現した。昭和40年代に自動車道

ができるまでの重要な街道だった証拠。詰坂の登り口は佐波の客神社。数台分のスペースが

あるので事前に車を置き、野波の里路谷林道を上がって枕木山駐車場へ向かうと良い。この

ルートもナタやカマを持参しての登山道維持に協力願いたい。少し伐採してもそれで多人数

が歩けば道ができるのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

枕木山→1時間→三坂山レーダー下分れ→

1時間半→高渋山→1時間半→詰坂峠→

40分→客神社

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(編集部 注 ※)

当 松江北山編は、本紙では二回に分けて掲載しましたが、ここでは加筆訂正後のものを一括掲載します。

内藤武明さんを偲んで

記 吉川

内藤さんは突然逝ってしまわれた。享年65歳。実に惜しい人を亡くし、茫然自失、ただ

ただ悔しい思いでいっぱいである。告別式は、平成21年6月2日(火)虹のホールおおば

で秋鹿教会牧師今井靖清さまの司式により執り行われた。

ホール前には生花の台が横に並べられ、一歩玄関に入り最初に目に映ったのが一枚の写真

である。内藤さんの還暦か何かご家族のお祝いの席の写真であろう。右側の征子奥さまが真

横のご主人をやさしく笑顔で見つめ、内藤さんご自身は目の前にある料理に箸をつけようと

しながら笑顔で奥さまを見つめて何かを話されている場面である。それはあたかも、こうし

て家族もそれぞれ結構無事に暮らしているし、私たち二人も元気でお互いにご苦労でした、

というような夫婦の穏やかな語らいであろうか。

式場入り口付近のケースに貼ってある遺言状に注目した。告として、重い病気にかかっても、

決して延命治療をしないように、自然の医療治療をしてくれるように、とご家族に呼びかける

ものである。その近くには、日ごろ使用された雨具、ザック、帽子、ストックが飾ってある。

ストックは、雪の大山頂上の三角地点で落とされて、仲間の一人が拾ってあげたストックであ

る。心をうたれたのは、真新しい袋に詰められているシュラフ(寝袋)である。泊りがけの山

行計画でもあったのか。近くの机上には多数のアルバムが展示してある。

式場の中央にはステージいっぱいに多数の生花が山の形に飾ってある。それは、最後の思い

出の山となった蒜山三座を表わしたものであり、上蒜山には夫婦二人で登られた道程が赤いカ

ーネーションで描かれている。キリスト教では山に登りながら天に召されてゆくという。左端

には大山頂上で剣が峰を背景にして写した直立姿勢の山男内藤さんの大きな遺影が飾られてい

る。今年の冬にクラブの仲間たちと一緒に登ったときの写真である。式場は静謐・清楚な雰囲

気に満ちて、告別式の開始を待つばかりである。

告別式は午前10時に始まった。告別式次第にしたがって、参列者全員が賛美歌を歌ったり

、牧師さんのお話を聴いたり、お祈りをしたりした。式場での牧師さまのお話は参列者の心に

染み透った。「荒野をゆくときも、あらし吹くときも、ゆくてをしめして、たえずみちびきま

せ。また会う日まで、また会うひまで、かみのまもり汝(な)が身を離れざれ。」賛美歌は厳

かに式場にゆきわたった。

今井牧師のお話と、後ほどの奥さまのお話とを総合すると、内藤さんの最期の様子は次のよ

うであった。5月22日(金)〜25日(月)蒜山三座登山の予定で休暇村に予約された。2

2日ホテル泊、23日ご夫妻は上蒜山登頂を試みられたが、内藤さんの体調がすぐれず2合目

で待機するとのことであり、奥さまは一人で登られ、下山にかかると内藤さんは8合目まで登

っておられた。そこでお二人は下山しホテルで宿泊された。24日中蒜山、下蒜山登山の予定

であったが、内藤さんの体調不良のために二人で付近をドライブしたり散策したりされた。2

5日松江に帰り泉胃腸内科医院でエコーを撮り、26日内視鏡検査の結果、内臓に出血がみら

れた。同日松江市立病院でCT等の精密検査の結果、胃の噴門部がんが原因で肝臓等が末期が

ん症状となっていて、極めて重篤な状態であり余命は3ヵ月、場合によっては1ヵ月とのこと

であった。帰宅後、今後のことを二人で話し合われたときに、元来聖書にそれほど深い関心と

理解を示しておいでにならなかった内藤さんが、奥さまと一緒に天国に行きたいとおっしゃっ

た。奥さまはその旨を今井牧師さんに連絡なさった。30日午後3時ごろ急激に病状が悪化して、

松江市立病院に運ばれた。牧師さん、ご家族に看取られ、賛美歌を聴きながら永眠された。大動

脈の破裂が死期を早めた。天国に召されたのは6時28分であった。

ご長男の挨拶、友人の弔辞、式が終わってからのDVDによる全家族のメッセージ・写真等

で内藤さんの人柄が十分理解できた。家族には、優しい夫、父親、まつえじじいであり、友人

のよき相談相手であり、地域の民生児童委員としてお世話をなさった。若い頃のご夫婦の山登

りの写真もあった。定年まで日本通運に勤務され、仙台、富山、広島等に転勤し、日本通運松

江運輸社長で退職された。

最後のお別れで参列者はそれぞれ献花をした。献花台の後ろの寝棺の花の中に眠る内藤さん

の顔は穏やかであった。棺の横で喪主のご長男、奥さま、ご家族が参列者にお礼のお辞儀をな

さった。私は奥さまにお悔やみを申し上げると、「減量中の吉川さんですね」とおっしゃった

。「ええそうです、体重の話もしましたが、ご主人は話題の豊かなお方で、いろいろなことを

語りました」とお答えした。内藤さんは山から帰宅すると、奥さまに山や仲間のことをお話し

なさったようである。

内藤さんが松江ハイキングクラブにいつ入会されたか記憶は定かではないが、近年ご一緒す

ることが多かった。今年だけでも、大社弥山(1
/4)、吾妻山(2/1)、三平山(2/15

)、大山(3
/8)、大万木山(3/22)、船通山(4/29)と登っておられる。山では体

重が重いとそれだけ登るのが苦しい。内藤さんと私の体型はよく似ており背高の肥満体である

ために、お互いに減量に努め、その成果を話し合い励ましあうことにしていた。二人ともに努

力が実りつつあり、喜んでいる矢先の死であった。

終わりに、小さな出来事を思い出し、お人柄を偲びたい。昨年3月16日の山行計画は、石

見銀山・鞆の浦コースのウォーキングであった。大森代官所を9:30に出発し、昔の銀山街

道を歩き、日本海の鞆の浦を経て、山陰線の馬路駅に14:55に到着した。電車が来るま

で40分の待ち時間があった。私は一人で、しばらく人通りのない鄙びた馬路の道路を歩いて

いると、駅の近くに小さな店があり、手をかざして窓ガラス越しに覗いてみた。すると誰かが

手招きしているので、中に入るとそこには内藤さんの姿があった。薄暗い奥には相当年配の女

性が店番をしていた。店のケースからカップの清酒を取り出し口をつけた。ふと、別のケース

に切り身の魚があるのを見つけて、内藤さんが、この魚を酒の肴につくってもらえないかと言

われると、この老婆はサッサと手際よく料理して3分ほどで中皿にハマチの刺身を出してくれ

た。ワサビのきいた刺身で飲むお酒は美味しかった。飲みながら内藤さんはいくつかの質問を

された。「おばあさん、道に人が歩いていないね」、すると「そうなんです、年寄りばかりに

なってしまった。魚も丸々一匹では多すぎるから、切り身にしているんだよ」といった具合の

世間話であった。おだやかに、やや太い声でゆっくりと話しかけ、お年寄りの話をいくつか引

き出された。20分ほど経ってから腰を上げ、二人で1500円を支払って、何事もなかった

かのように駅に帰り、みんなと一緒に石に座り電車が来るのを待った。旨かったね、と一言耳

元で囁かれた。お互いに他人にかくれて悪戯をした少年のような気持ちであった。

春風駘蕩、しかも用意周到。器の大きい人物に逝かれて実に寂しい。内藤武明さん、天国で

ゆっくりとお休みなさいますように。